コンテンツへスキップ →

筑波研究学園都市建設史の大転換

一昨年、京都府立大学(京都地域未来創造センター)と精華町との共同研究で茨城県庁を訪問した際に見せていただいた「筑波研究学園都市自立計画(案)」(※1)を、GoogleドライブのOCR機能を使ってテキスト化し、改めて熟読してみると、当時の県庁職員が相当の熱意をもって筑波研究学園都市建設の歴史を大きく動かそうとしていたのではないかと感じました。

この「自立計画(案)」では、筑波研究学園都市建設がそろそろ概成しようとしていたにも関わらず、研究学園地区での人口定着は思ったように進まず、イニシャルコストこそ国の負担で整備されたものが多かったにせよ、多額の維持管理コストが予想される高度な都市基盤を将来いったい誰が支えていくのかという、当時の県庁職員の危機感が強く表れていると思います。

とにもかくにも、筑波研究学園都市を自立させなければ大変なことになる、なんとかしなければと、その強い思いがにじみ出ているように感じられるのです。

その後、県と国、そして地元6町村とでどのようなやりとりがあったのか、詳細はわかりません。けれども、その2年後に国によってとりまとめられた「筑波研究学園都市建設後期計画(案)」(※2)では、見違えるほどに整理された施策体系が示されています。まさに県庁職員の「なんとかしなければ」に対する国土庁職員の真摯な回答が示されていると感じられます。

私の所属する精華町の諸先輩方からは、学研都市建設を受け入れる際、地元基礎自治体の役割だとされた関連公共公益施設整備にかかる財政問題が最大の不安材料であったと聞かされてきました。しかし、当時の問題意識は、筑波では国が関連公共公益施設を自ら整備する、あるいは国から大きな財政支援が受けられりしたが、学研都市ではそうはいかないらしい、小さなまち精華町で関連公共公益施設の整備を負担するなんてとても無理、なんとかしなければ財政破綻は避けられない、諸先輩方の心配は、想像もつかない将来の都市運営への不安ではなく、当面の都市建設着手にあたっての不安に集中していたと考えられます。

1983年(昭和58年)に全管理職による筑波訪問の現地ヒアリング記録からは、そうした当時の諸先輩方の危機感が強く感じられます。

その後、諸先輩方の関心は、都市建設において筑波では国から得られたはずの財政支援に代わるものをいかにして自力で確保するのかに向いていったと聞かされました。実際、その後の精華町では、開発事業者からの破格の協力を得て、関連公共公益施設整備の負担問題は見事に解決が図られていきました。

一方、精華町の幹部職員が大挙して筑波訪問をした1983年頃といえば、筑波研究学園都市では、研究学園地区の概成後、つくば博開催を契機に大転換が図られようとしていた時期と重なります。おそらく諸先輩方は、つくば博を前に沸き立っているという印象に押され、筑波研究学園都市が新たな局面でいかなる課題に立ち向かおうとしていたについて、十分に認識する余裕はなかったのではないかと思います。

当時、筑波研究学園都市は、茨城県の「筑波研究学園都市自立計画(案)」を端緒に国の「筑波研究学園都市建設後期計画(案)」で取りまとめられた施策体系を、つくば博開催を契機にまさに実現しようとしていた時期だと思われます。そして、将来にわたる都市運営の担い手として、地元6町村に対して「人口の定着」と「産業の集積」によるエンパワメントで「自立都市」を建設(最終的には町村合併による新市建設)しようとするため、国と県が周辺開発地区の整備に全力投球していくという大転換が図られていった頃だと思われます。

研究学園地区建設から周辺開発地区整備への大きな転換期、それを学研都市で置き換えて考えるのは難しいかもしれません。しかしながら、例えば2006年(平成18年3月)のサード・ステージ・プランが策定された2006年当時、学研都市では8市町の合併議論などは当然タブー視されていたため、一体的な都市運営の必要性は強く認識されつつも、それは「高度な都市運営」であるとして事実上棚上げされ、将来にわたる都市運営の担い手問題として、地元の市町に強力なエンパワメントが必要などといった発想は誰も持ち合わせていなかったのだと思います。

今からでも遅くないと感じています。そもそも学研都市建設概成の遅れの大半は、国(UR都市機構)が担当するはずだった地区の開発の遅れが最大の原因です。国に所期の役割を果たしてもらうことは当然のこととして、将来にわたる都市運営を考えるのであれば、府県にこそ強い危機感を抱いていただきたいのです。

財政的自立は未だほど遠い精華町に、中心クラスターである精華・西木津地区ひとつを支える力はありません。既に中核市の枚方市や奈良市は別格として、少なくとも京都府域の三市町(京田辺市・木津川市・精華町)には相当のエンパワメントが必要です。

筑波研究学園都市建設史の大転換の教訓が、けいはんな学研都市建設にはまだほとんど生かされていないと痛感しています。

※1)筑波研究学園都市自立計画(案)(1978年3月茨城県)(茨城県資料「筑波研究学園都市」(1999年3月)Ⅳ資料編より)

※2)筑波研究学園都市建設後期計画(案)(1980年3月国土庁)

最終更新日:2021年6月6日

カテゴリー: 筑波研究学園都市から学ぶ

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です